骨製針入れについての考察3




さて、オホーツク文化とイヌイットとの関係性ですが、まず、イヌイットとの関係性について。  
菊池俊彦氏によると『エスキモー文化は、古コリャーク文化と同じものを古コリャーク文化、オホーツク文化に求めることができるのは針と針入れにとどまる。  
エスキモー文化は、古コリャーク文化との間に幾つかの骨角器の上で共通性が認められるが、さらにそれをオホーツク文化にまで求めようとすることはほとんど困難である。エスキモー文化の骨角器との相似(回転式銛の第一型式、針、針入れおよび装飾モチーフ)を指摘できるにせよ、それはエスキモー文化がコリャーク地方に波及し、古コリャーク文化に採り入れられた上での南下と考えるべきであるろう』 と述べており、エスキモー(イヌイット)とは直接の関係性は認められないようです。

また、香深井A遺跡出土とイヌイットの針入れとは彫刻は確かに似ています。しかし、この香深井A遺跡出土の針入れは本当にオホーツク文化人のものなのか。が焦点になってきます。この針入れの彫刻は稀な例であり、ほかの遺跡から出土した針入れと彫刻を比較した際、香深井遺跡の針入れの彫刻は繊細で細かいのです。オホーツク文化人の線刻文は比較的大雑把といいますか、簡単な装飾になっています。この香深井遺跡ではほかに骨製スプーンなどが出土しており、このスプーンにも同じような線刻文の彫刻が施されています。

さて、「香深井遺跡で生活していたヒトはオホーツク文化人ではない」かと言うとなんともいえません。続縄文〜アイヌ文化までも遺構遺物が出ていますので正確には研究者でないとわからないと思います。

そして、イヌイットの針入れについて イヌイットの針入れには両端に蓋のようなものがついてます。一見オホーツク文化針入れにはついてないように思われますが、おそらくは数百年土の中にあり、分解または見つけられず紛失されてしまったのです。

このことがわかるのは、稚内市オンコロマナイ貝塚出土の第三墳墓から出土した副葬品に針入れとその蓋らしき琥珀玉が近接して出土した例があります。しかし、この墳墓の埋葬者は鈴谷文化人だと天野哲也氏が論文のなかで書かれています。

現在、オホーツク文化としては針入れとその蓋については発見されていません。これは出土状況の関係でみつからないのかそれとも。といった感じです。

次に針入れの主な素材です。針入れは主にアホウドリの上腕骨・尺骨から製作されています。まれにワシタカや白鳥の骨からも作られているそうです。理由としては、
1.アホウドリは当時どこにでも生息していた
2.アホウドリは大型であり、素材として適材であった
3.何かしらの信仰があった

3については信憑性はありません。鳥の骨というのは空洞で相当硬い質であり、骨鏃や生活用品に適していたと考えられます。
次にオホーツク文化以外での針入れについてです。 鳥居龍蔵博士が千島アイヌの調査にいったときにチシポと言われる骨製の針入れを千島アイヌが使用していることを報告しています。チシポはワシタカ、白鳥の鳥管骨を素材として作られています。現在のアイヌではこのチシポは木製だそうです。そしてやはり彫刻が施されていました。この彫刻もオホーツク文化に近似なものと感じます。

イヌイットの針入れとは形は似ているものもありますし、違うものもありました。

最後にこの骨角器としても針入れですが、北方圏ではよく見られるようです。北海道を含めた、シベリア、カムチャツカ、千島列島、サハリンの民族は漁労や防寒着を縫うために、さまざまな彫刻を施した針入れを作っていたと私は考え、彫刻の相似についても、似てはいてもそれぞれ、民族の証明として使われてきた彫刻は似ているけど違う民族と考えることができると思います。 そして、やはりオホーツク文化とイヌイットでは時代に差がありすぎ、ルーツは同じでも同一の文化圏民族ではないと考えています。

菊池俊彦 1971 「樺太のオホーツク文化」『北方文化研究』5
鳥居龍蔵 1908 「考古学民族学研究 千島アイヌ」『鳥居龍蔵全集』5
種市幸生 2004 「骨角器」『考古資料大観』11
野村 崇 2003 『北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』
米村 衛 2004 『シリーズ「遺跡を学ぶ」001 北辺の海の民 モヨロ貝塚』